コラム

オリンピックに野球を呼び込んだ男~アイク生原の生涯②

オリンピックに野球を呼び込んだ男

❷「野球作戦」が実を結んだロス五輪の公開競技

東京オリンピックで復活する野球を36年前、五輪種目にするために奮闘した日本人がいた。
彼の名はアイク生原(いくはら)(本名・生原昭宏)。亜細亜大学野球部監督を経て27歳で米大リーグ・ドジャースに自費留学し、オーナー補佐まで登りつめた55年の人生は、野球と日米親善に捧げた生涯だった。

 日本で手ごたえを感じたドジャースのピーター・オマリー会長と、オーナー補佐・アイク生原の野球承認へのロビー活動は、オリンピックの種目決定に大きな影響力を持つ大国・ソ連(現ロシア)への説得に広がっていく。オマリーが当時のことを回想する。
「私はアイクとモスクワを訪問する予定だったが、土壇場になって私がどうしても行けなくなったため、アイク一人でモスクワに行き、当時のソビエト連邦スポーツ相、パブロフ氏に会ってもらうことになった。
 アイクの手には、パブロフ氏の親友である松前重義博士(東海大学総長=当時)からの紹介状が託されていた。その紹介状には『野球を五輪の正式種目にするという我が方の提案にソ連が反対しないようお願いする』というメッセージが込められており、さらに松前博士がモスクワのレーニン丘に野球場を建設して、国立モスクワ大学に贈呈するという計画も明らかにされていた。私とアイクは実際にその球場の起工式と竣工式に立ち会い、その球場は現在も使用されている」

ソ連スポーツ相に託された東海大学・松前重義総長の親書

 当時のことは、生原の著書『競争に生き残る男』(主婦と生活社)にも書かれている。
〈東海大学の松前重義総長は即座にこう言われた。
「今の世界の政治情勢は悪い。これはソ連とアメリカの関係がよくないからだ。この関係をよくするためには、スポーツが一番いい」
 松前先生は、その後、ピーター・オマーリー(原文のまま)と会ったときも、「私に残された仕事は、世界平和に少しでも力を尽くすことだ」といわれ、二人は固く手をにぎり合った。
 そして、すぐにソ連に連絡をとってくださって、ピーター・オマーリーとピーター・ユーベロース(原文のまま)の名代となった私に、わざわざ松前総長の外国使者として大館勲先生をつけてくだされ、二人でソ連のスポーツ大臣、サージオ・パブロフ氏に会うためにモスクワに飛び、表敬ののち面会することができたのである。
 また同年九月、オマーリーは米大リーグコミッショナー、ブーウィー(原文のまま)・キューン、世界アマチュア野球連盟会長ボブ・スミス、ロサンゼルス・オリンピック組織委員会野球コミッショナー、ローン・レーン、同監督ラッド・デドウ(原文のまま)とともに訪日。日本オリンピック委員会柴田勝治委員長を訪ねた。その時、訪日中のジョージ・ブッシュ米国副大統領は、マイク・マンスフィールド米国駐日大使に会われ、野球のオリンピックでの正式種目化に、日本の協力を得るよう要請もした。〉

中国説得のため天津大学に球場を贈ったオマリー会長

 オマリーはその後、中国にも出向き、ロビー活動の一環として天津(てんしん)大学に野球場をプレゼントした。
「中国はIOCのなかでも重要なメンバーであり、私は中国で野球を発展させるのに手を差し伸べたいと望んでいる野球仲間がアメリカにもいるのだということを中国の人たちに理解してもらいたいと思った。私はアイクと何度か中国に足を運び、球場建設の候補地を見て歩いたが、最終的に天津大学に決めた。
 私たちは球場の起工式に立ち会ったが、1986年9月12日の球場開きにはクレイトン・ヘイル米国リトルリーグ連盟会長、ボブ・スミス国際野球連盟会長、ボーウィ・キューンMLBコミッショナー、ロッド・デドー南カリフォルニア大学野球部監督、松前重義東海大学総長その他多くの要人が参列してくれた。当時、
中国の野球は揺籃(ようらん)期といってよかった。
 1992年1月18日にはニカラグアのマナグアにも野球場を作り、球場開きをしたが、それにはアイクも私と共に出席した。また1998年7月4日にはアイルランドのダブリンでも球場開きをしたが、残念ながらこのときにはもうアイクは他界していた」(ピーター・オマリー)

野球正式種目の夢がかなったバルセロナ大会

 ロサンゼルス・オリンピック組織委員会委員長・ユベロスの電話で始まった〝野球作戦〟は2年後、1984年のロサンゼルス大会で野球の公開競技として実を結ぶ。「ロスで五輪の正式種目に」という夢はお預けとなったが、世界から8カ国が野球に参加した。オマリーが開放したドジャー・スタジアムには連日5万人近い観客がつめかけ、大会8日間で実に38万人を集めて関係者を驚かせた。
 生原は日本チームのベンチに、当時小学生だった長男・睦夫(むつお)をバットボーイとして入れ、日本が優勝すると人目もはばからずに泣いた。生原が流す大粒の涙を初めて見たオマリーは「アイクはやっぱり日本人なんだな、と改めて思った」という。
 そして「野球を五輪の正式種目に」というオマリーや生原たちの努力と夢は、1992年のバルセロナ大会で実を結んだ。(敬称略)
( 生原伸久(いくはらのぶひさ)/産経新聞OB  日本記者クラブ会員77歳)

『東京オリンピック野球復活・陰の立役者 アイク生原の知られざる生涯/生原伸久 著』より抜粋・改変

アイク生原の 知られざる生涯

 

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