木村重男先生の上手な老い方手帖

コラム

人は生きてきたとおりに齢(とし)をとる。「いい年のとり方をしましたね」と言われるように。
良いも悪いも受け取めて、一日一日を大切に生きる、木村重男先生の珠玉のコラム。

⑩名前は幸せの山彦

 私の知人で神奈川県のA子さんは結婚して36年、ただの一度も夫から名前を呼ばれたことがありません。子どもが生まれてからは、ご多分にもれず「お母さん」。A子さんは、(あなたのお母さんは九州の宮崎にいるでしょう)と心の中で反発しては、何十回、何百回と「名前を呼んでくれるのが1番のプレゼントよ」と迫りました。でも夫はニヤニヤするだけで、いっこうに名前では呼んでくれません。
三重県のB子さんも結婚以来、夫から1度も名前を呼ばれていません。「オーイ」「いたか?いたか?」(そこにいるか?の意味)と呼ばれています。子どもが小さかったころは「お母さんの名前はイタカなの? 変な名前」と笑われ、夫に何度頼んでも「通じればいいんだ。いちいちこだわるお前が変だ」と、反対に叱られる始末です。
名前は、親がわが子に「将来こんな人になってほしい」という強い願いを込めてつけたもの。親から受け継いだ生命の象徴であり、その人だけの財産ですから、尊重したいものです。また、その人自身を表わすものだけに、誰でもきちんと名前を呼ばれるのはうれしいことです。それなのに、母親になった途端、「お母さん」と呼ばれ、孫ができると「おばあちゃん」になり、ひどい場合には「おい」が名前の代わりになっています。
また、自分の孫以外からは「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼ばれたくない、という高齢者が最近は増えてきました。
若者であれ年配者であれ、相手を「〇〇さん」と名前で呼ぶことは、二人の関係にいっそうの親しさが生じるから大切です。
名前ひとつですが、そこに信頼と愛情をこめれば、いい人間関係が生まれ、相手にささやかな幸せをプレゼントできます。
配偶者を亡くした人の中には、「一度だけでも名前を呼んでやりたかった」という方がけっこうおられます。一度しかない人生です。あと何年夫婦で一緒に暮らせるかわかりません。相手の両親の思いを尊重する意味でも、意識的に名前を呼びたいものです。
私も結婚以来、妻の名前に「さん」をつけて呼ぶことで、せめてもの「心のぜいたくを」と思ってきました。6人の息子の嫁たちにも、それぞれ名前に「さん」をつけて呼んでいます。
もちろん「自分も妻から名前を呼んでほしい」と思っている男性も多いことでしょう。
今さらお互いに「いい歳をして……」と照れないで実行に踏み切る勇気も必要です。
私たち夫婦はそれぞれ台湾と満州で生まれ育ち、戦後引き揚げてきてから結婚しました。
私の好きな言葉に「一日夫婦たらば百日の恩」というのがあります。その縁の不思議さ、深さを思って、私はこれからも親しみと感謝をこめて「照子さん」と呼び続けていきます。

木村重男(きむらしげお)
一般社団法人倫理研究所 参与。
文部科学大臣から社会教育功労賞を受賞。著書に『夫婦の玉手箱』『豊かな人生を拓く玉手箱』など多数。

 

関連記事

TOP