コラム

禁断の江戸史

江戸の「常識」と思われていた時代観念を破壊するような知られざる史実や事件を歴史研究家・河合敦先生が紹介します。

教科書に載らない江戸の事件簿②

孫の家光の夢に現れた徳川家康

(前略)
 家光の父・二代将軍秀忠は、次男(長男は早世)の家光(幼名は竹千代)ではなく、じつは三男の国松(のちの忠長)を跡継ぎにしようと考えていたという。秀忠の正妻で家光と国松の生母である江(ごう)(崇源院)が、国松のほうを溺愛していたからだ。秀忠は大変な恐妻家で、姉さん女房の江にはまったく頭が上がらない。それに、病弱で愚鈍に見える家光とは違い、国松は聡明な子どもだった。この時期はまだ、長子相続制度は確立していない。それに家光は次男だった。才覚ある者が家を継ぐのは、不思議でもなんでもない。実際、秀忠自身も三男だったが、兄の秀康を差し置いて徳川宗家を継ぎ、将軍になっている。ところが家康は、家光を跡継ぎにするよう、秀忠に内命したのである。
(~中略)
 ともあれ、家光は自分を将軍にしてくれた祖父の恩に深く感謝し、以来、あがめたてまつるようになった。朝と夕の二回ずつきちんと正装し、家康の霊に祈りをささげ、「生きるも死ぬも、何事も権現様(家康)次第。将軍になれたこと、本当にありがたく思っております」、「私と家康様は一体で、私はあなたの生まれ変わりです」と記した書きつけを守り袋に入れて携帯していたのである。実際は、家康が死ぬ前に家光は誕生しているので、そんなはずはないのだが、そう信じるほど敬愛していたのだろう。
(~中略)
 日光輪王寺には、先述のとおり、守り袋に入れた家光自筆の文書がいくつか現存する。その中に家光が見た夢が書かれている。それは、次のような内容だ。「密訴を企む者の馬が権現様に近づいた際に、危険を感じた私がその馬を捕らえました。権現様は『よくやった』と直に仰られたので、ありがたさに私は頭を地につけ、権現様の御恩に報いるため命を差上げる覚悟ですと申し上げましたところ、権現様は微笑みながら『おお』と声をかけて下さいました」
(曽根原理著『神君家康の誕生 東照宮と権現様』吉川弘文館)
 そして、この夢の記憶に従って家光は家康の肖像を描かせたのだが、輪王寺には現在、そうした霊夢像が八幅残っている。「ぶっちゃけ寺」のロケで見せていただいたのは、そのうちの一幅であった。
 目の前に現れた徳川家康は、私たちが知る恰幅(かっぷく)のよい威風堂々とした人ではなかった。しかも服装も衣冠束帯(いかんそくたい)ではなく、寝間着のような服装だった。一緒に肖像を見た女優の戸田恵子さんは「身内にしか見せないような、日常のくつろいだ姿。優しそうなおじいちゃん。身内だけの絵を見てよかったのかな。ちょっとぞぞっとした」とおっしゃっていた。爆笑問題の太田光さんは「仏様のような顔に見える。悪いことも全部経験した上で到達する姿」だと言った。確かに、一見、優しそうな好々爺(こうこうや)に見えるものの、その姿は人間を超越した不思議な存在に思えた。
 こんな姿の家康と、家光は夢の中でしばしば語り合い、そのお告げによって病気を治してもらったり、政策のヒントをさずけてもらったりしたと伝えられる。
 ちなみに家光は、三歳で重病にかかったとき、家康の調合した薬で病を治してもらった経験があった。それからというもの、疱瘡(ほうそう)(天然痘)にかかったときなど、枕元に現れた家康を拝むと回復し、さらに大人になってからも夢の中で家康に病を治してもらっているのだ。寛永十四年に長く患(わずら)ったさいにも家光は「頼むは大権現の神徳だけであるとし、煩(わずら)いがよくなるようであればよい夢を、そうでなければ悪い夢をと念じていたところ、夢中で家光が日光へ社参し、束帯(そくたい)装束(しょうぞく)を着て、神前格子のほとりで、拝している夢を見た。すると病は本復した」(藤井讓治著『人物叢書 徳川家光』吉川弘文館)という。
 ちなみにこの逸話から、家光が夢というものは、現実世界でも大きな力を持つと認識していたことがわかる。だから悪い夢を見たときには、非常に落ち込んでしまったようだ。
 これに関して、『徳川実紀』に次のような逸話が載る。
 ある日、家光が寵ちょうしん臣の酒井忠勝に「悪い夢を見た」とため息をついたので、忠勝は「人はそのときの気持ちにより、さまざまな夢をみるものです。悪い夢を気にとめる必要はございません」と元気づけた。なかなか現代的な解釈だ。けれど家光は、「歯がことごとく抜け落ちた夢を見た。昔から不吉な夢だというではないか。どうすれば気持ちが落ち着くのだろう」と落ち込んでしまった。さすがにこの有名な凶夢に対し、忠勝も慰める言葉が出なくなってしまった。
 すると、近くでこの話を聞いていた能楽師の観か ん世ぜ 左近が、「さてもめでたき御夢かな」と言ったのである。皆が不思議な顔をすると、観世は「落ち葉かくなるまで命ながらへて、猶な おいつまでか生の松」と高た かさご砂の一節を謡った。これは世阿弥がつくった能の謡曲で、高砂と住吉という離れた場所に生えている松も心は一つという夫婦愛や長寿を愛め でたもの。つまり観世左近は、「落ち葉」を家光が見た夢である「落ち歯」とかけたのである。これを聞いて家光の機嫌はすっかりよくなり、家臣たちも「さてもよき御夢」だと家光の夢を祝った。なお、観世左近に対してはのちに褒美(ほうび)を与えたという。

 

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