コラム

【最終回】オリンピックに野球を呼び込んだ男~アイク生原の生涯⑧

野球をオリンピックに 呼び込んだ男

❽ 闘 病

東京オリンピックで復活する野球を36年前、五輪種目にするために奮闘した日本人がいた。彼の名はアイク生いく原はら(本名・生原昭宏)。亜細亜大学野球部監督を経て27歳で米大リーグ・ドジャースに自費留学し、オーナー補佐まで登りつめた55年の人生は、野球と日米親善に捧げた生涯だった。

余命5カ月の進行ガン

「起こしたか? 俺、胃ガンだよ。慶應(けいおう)病院で手術を受けることにしたから、あさって日本に行く。成田まで迎えに来てくれんかな」
 1992(平成4)年の6月7日早朝、筆者はアメリカにいる兄から国際電話で起こされた。兄は渡米27年目のその頃、フロリダ・ベロビーチのドジャータウンでヤクルト・スワローズの留学選手、長嶋一茂を指導しているはずだった。
 5月末まで毎朝ジョギングをしていた生原が突然、食事がとれなくなり、ロサンゼルスに戻ってドジャースの専属病院で精密検査を受けたのが6月1日。同18日、東京の慶應病院で手術を受けたときには、胃の幽門部(出口)に鶏卵大のガンができていた。第4期の進行ガンで、術後、執刀医は「余命は長くて5カ月でしょう」と言った。
 生原はプロ・アマを問わず日米の野球の架け橋として尽くし、オマリーとともに日本をはじめ各国のオリンピック関係者を歴訪して野球を正式種目にするよう説得して回った。しかし、ようやくバルセロナ大会で五輪野球の夢がかない、IOC(国際オリンピック委員会)からオマリーとともに開会式の招待状が届いたときは慶應病院にいた。
 生原は手術後、ロサンゼルスの自宅に帰った。一時はドジャー・スタジアムの職場に復帰したが、病状は悪くなる一方だった。4分の1になった胃は術後、ほとんど食事を受けつけないまま8月に腸閉塞(ちょうへいそく)の手術。一番恐れていたガンの転移再発が確認された。
 8月、前年に中日監督を退任した星野仙一が真っ先に見舞いにきた。星野から生原の病状を聞いた愛弟子・山本昌は当時、自己最多11勝目のウイニングボールにサインして星野に託した。
 9月に生原重病のニュースが広がると、日本から王貞治や2年前に引退した村田兆治夫妻が見舞いに来た。
 巨人監督に復帰直前だった長嶋茂雄も29日、すべてのスケジュールをキャンセルしてロサンゼルスに向かった。毎晩見舞った上司・オマリー 上司のドジャース会長、ピーター・オマリーは生原がアメリカで再入院してから毎日、病室に通ってくれた。10月に入ると病状はさらに悪化し、6日には日本から両親と弟妹が駆けつけた。UCLAメディカルセンターに着いた日本の家族はその夜、いつものように仕事を終えて見舞いに来たオマリーと生原の感動的な語らいを見た。「アイクにはドジャースの仕事のほかにも、よく大リーグのコミッショナーやナショナルリーグ会長の特命も下って、彼はそれをこなした。キューン元コミッショナーなどは、日米間に事が起きるとよくアイクの意見を聞き、そのとおりに処理していた。それだけ米球界の幹部もアイクを全面的に信頼していたんだよ」
 オマリーの話を、生原はベッドを降り、折りたたみイスに座って頭をたれて聞いていた。やがて生原は、消え入るような声でオマリーに言った。「私はもう、字を読むことも書くことも、テレビで野球の試合を見ることもできなくなりました。野球の仕事ができないのなら、人生の浪費です。もう生きている意味がありません」

長嶋から巨人監督に復帰の電話

 その後も、病状は刻々と重くなる。そんな11日早朝、ベッド脇の電話が鳴った。生原は痛み止めの点滴で眠っていたので、病室に泊まり込んでいた2番目の弟が出ると長嶋からの国際電話だった。「起こさないでください。明日、読売巨人軍の監督に就任する記者会見をします。アイクさんにはかねがね『もう一度、監督としてグラウンドに戻るべきだ』と言われていました。監督就任が決まりましたので、誰よ
りも先にお知らせしたかったのです」
 目を覚ました生原にこのニュースを伝えると、彼はウンウンとうなずいた。彼はよく妻の喜美子に「長嶋さんが再びユニフォームを着るときは必ずコーチとして迎えてくれる」と話していた。信頼しあう長嶋との間に「男の約束」ができていたのだろう。
 しかし、「長嶋復活」の願いがかなった日を境に生原は昏睡状態が多くなった。UCLAでも手の施しようがなく、転院したドジャース専属のセンチネラ病院に出張先のオマリーから電話がかかってきたのは25日。かすかに目を開け、喜美子に受話器を耳に当てさせた生原は「サンキュー、ピーター。アイ・ラブ・ユー、ピーター……」とあえぐように言った。
 オマリーからの電話に語りかけた「アイ・ラブ・ユー、ピーター……」には、アメリカに渡って27年間、兄弟のように寄り添ってきた同い年の上司に対する、万感の思いが込められていた。
 翌26日の午前4時10 分、生原は両手を天井に向けて上げ、目じりから一筋の涙を落として永遠の眠りについた。享年55。自ら太平洋にかけた日米野球の架け橋を、全力疾走する途中で力尽きたのである。
 生原はオマリーのはからいで、ロサンゼルス郊外の霊園に埋葬された。名門・オマリー家の、それも先代オーナー、故ウォルター・オマリー夫妻の隣を与えられたのだ。〝アイク〟は、名実共にオマリー家のファミリーになったのである。
 生原は日米野球親善に尽くした功績を認められ2002年、日本の野球殿堂入りを果たした。(敬称略) 完

( 生原伸久(いくはらのぶひさ)/産経新聞OB  日本記者クラブ会員78歳)

『東京オリンピック野球復活・陰の立役者 アイク生原の知られざる生涯/生原伸久 著』より抜粋・改変

アイク生原の 知られざる生涯

 

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