コラム

オリンピックに野球を呼び込んだ男~アイク生原の生涯⑦

野球をオリンピックに呼び込んだ男

❼中日・山本昌投手の奇跡

東京オリンピックで復活する野球を36年前、五輪種目にするために奮闘した日本人がいた。彼の名はアイク生原(いくはら)(本名・生原昭宏)。亜細亜大学野球部監督を経て27歳で米大リーグ・ドジャースに自費留学し、オーナー補佐まで登りつめた55年の人生は、野球と日米親善に捧げた生涯だった。

平凡な投手だった山本と生原の出会い

 中日ドラゴンズの左腕投手・山本昌は2015(平成27)年10月、日本プロ野球史上初めて50代での登板を果たして引退した。
 神奈川県の日大藤沢高校からドラフト5位で中日入りし、通算29年間で219勝。この間、最多勝3度、最年長ノーヒットノーラン、49歳で最年長勝利……など、数々の記録を残したレジェンド左腕である。
 しかし山本がアイク生原と出会わなかったら、この球史に残る名投手は生まれなかったであろう。
 身長186センチ、体重87キロ。山本は初め、申し分のない巨体に恵まれながら、スピードが133キロほどしか出ない平凡な投手だった。しかし1988(昭和63)年2月、転機を迎える。ロサンゼルス・ドジャースのオーナー、ピーター・オマリーやオーナー補佐のアイク生原と親しい監督・星野仙一が、ドジャースのキャンプ地ベロビーチで中日のキャンプを行ったのだ。
 キャンプが終わり、中日ナインが帰国するとき、星野は山本ら若手選手5人を野球留学生としてドジャースに残した。生原は当時の山本について筆者に言った。「あのとき星野さんは『ヤマは体は大きいが、このまま日本に連れて帰っても球界には残れないだろう。しかし、アメリカで教えてもらえば化けるかもしれん。ものになるかどうかわからんが、アイクさん、面倒見てやってよ。すべて任せるから』と言って帰った。ヤマに何か気になるものを感じた勝負師・星野の勘だったのかもしれないな」

生原が薦めた新兵器スクリューボール

 フロリダの照りつける太陽の下で、未完の大器・山本と生原の二人三脚の挑戦が始まった。
 生原にはひとつの夢があった。「ヤマはドジャースのエース、バレンズエラのような投手になれないか」――。
 フェルナンド・バレンズエラはメキシコ出身で、史上初めて新人王とサイ・ヤング賞をダブル受賞した、80年代を代表する左腕投手である。太めの体から右打者の内角をつく直球と外角に鋭く落ちるスクリューボールを武器にしていた。
 生原はある日、ドジャータウンのブルペンに山本を連れて行った。「バレンズエラの投球をよく見ておけよ。いまの球がスクリューボールだ。ヤマがスクリューボールを習得すれば、必ずすごいピッチャーになるぞ。ヤマ、新しい武器を持て」
 そして「新兵器」のヒントは意外なところにあった。ある日、メキシコ人内野手のスパグニョーロがキャッチボールのとき、遊び心で投げている変化球を見て、山本は「これだ!」とインスピレーションを感じる。
 山本はスパグニョーロに教えてもらったスクリューボールを武器に1Aリーグで白星を重ね、1Aのオールスター戦に選ばれる。そして勝ち星を13まで伸ばした8月半ば、星野は山本を急遽(きゅうきょ)帰国させた。生原から毎日送られてくるファクスで、山本の急成長を知ったのだ。
 プロ入り後、4年間で1勝も挙げられなかった山本は帰国後、シーズン終盤のマウンドで躍動した。新兵器のスクリューボールと精度を高めたコントロールで5連勝、自責点0。中日の8年ぶりのリーグ優勝に貢献し、初めての日本シリーズにも先発登板した。
 山本は半年間のアメリカ修行で新兵器をマスターしただけでなく、生原から投手の基本である低めへのコントロールと、プロとしての心構えや生活習慣を厳しく指導された。そして「特に大きかったのは、消えかけていた野球への情熱や楽しさを思い出させてくれたこと」だという。

衝撃の再留学

 しかし、試練はこれで終わらない。中日の先発ローテーション投手として迎えた翌6年目、10勝の壁を破れない山本に星野の鉄て っつい槌がくだった。「マサ、もういっぺんフロリダで勉強し直してこい!」
 シーズンも終盤の9月23日、甲子園球場の阪神戦で逆転負けした山本は即日、マネジャーからフロリダ行きの航空券を渡された。中日の二軍選手が参加している秋季教育リーグに合流するためだ。
 2度目のサラソタ空港で山本を出迎えたのは生原だった。午前零時を回った到着ロビーで「監督に怒られて、また島流しですよ」とぼやく山本に、生原は「ヤマ、お前が〝ふた桁〟勝てなかった理由を探ろうじゃないか」と提案した。
 翌朝から、山本と生原のマンツーマン特訓が始まった。生原が山本に与えた課題は、スクリューボールとは対照的なカーブに磨きをかけることだった。
 早稲田大学野球部で捕手だった生原は、自ら山本の投球を受けた。Tシャツに短パンというラフな格好で、マスクもレガースも付けない。ワンバウンドのボールがヒザやスネを直撃しても、生原は「俺のことより自分のことを心配しろ。そんなカーブじゃ通用しないぞ」と檄げ きを飛ばした。フロリダに滞在した約2週間、山本はカーブだけを毎日200球以上、生原の構えるミットに投げ続けた。
 翌1990(平成2)年、山本はローテーション投手として10勝7敗の成績を残し〝ふた桁の壁〟を破った。最初の米国留学でスクリューボールを習得し、2度目の留学で生原直伝のカーブをマスターした山本は、内外角に落ちる変化球と低めのコントロールで球界を代表する長寿投手になった。「名古屋の自宅の玄関にはやさしい笑みを浮かべたアイクさんの写真を飾っています。ナゴヤドームで登板する日、僕は必ず『行ってきます』と写真に挨拶するんですが、不思議なもので、アイクさんの表情が曇って見えるときは勝てないことが多い。逆にまぶしいくらいに輝いて見えるときは、不思議といいピッチングができて、勝ち星にも恵まれる。きっと僕の体調や気分で、アイクさんの顔が違って見えるんでしょうね。アイクさんはいつも、僕を見守ってくれているのだと思います」
 山本は200勝投手になったとき、筆者にしみじみと言った。(敬称略)

( 生原伸久(いくはらのぶひさ)/産経新聞OB  日本記者クラブ会員78歳)

 

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