コラム

オリンピックに野球を呼び込んだ男~アイク生原の生涯⑥

野球をオリンピックに呼び込んだ男

⑥村田兆治投手を復活させたジョーブ博士とアイク生原

東京オリンピックで復活する野球を36年前、五輪種目にするために奮闘した日本人がいた。彼の名はアイク生いく原はら(本名・生原昭宏)。亜細亜大学野球部監督を経て27歳で米大リーグ・ドジャースに自費留学し、オーナー補佐まで登りつめた55年の人生は、野球と日米親善に捧げた生涯だった。

剛腕投手の悪夢の始まり

 野球ファンなら「マサカリ投法」を知らない者はいない。ロッテオリオンズのエース・村田兆治は、左足を高く上げてから投げ下ろす独特のフォームで生涯215勝を挙げた名投手である。
 しかし1982(昭和57)年5月17日、近鉄戦の一回、右ヒジに激痛が走って降板した。剛腕投手が体験する悪夢の始まりである。
 村田は滝に打たれ、座禅を組み、あらゆる治療を試みたが効果はなかった。そして最後にすがったドジャースのチームドクター、フランク・ジョーブ博士の手術を受けて復活する。このとき、ジョーブ博士を紹介し、奇跡のカムバックを陰で支えたのがドジャースのオーナー補佐・アイク生原だった。
 村田は、さまざまな治療に取り組んだがヒジの痛みは消えなかった。焦りと絶望に沈んでいたとき、一筋の光明を見つけたのは妻、淑子(よしこ)だった。淑子は著書『明日ありて よみがえれ! マサカリ投法』(桐原書店)で、当時の心境をこう書いている。
〈日本でだめだと、あとは、スポーツ医学の発達しているアメリカしかない。そうだ! アメリカヘ行こう!アメリカしかない。〉
 淑子から悲壮な決意を聞いたロッテ球団は、生原に「ジョーブ博士を紹介してほしい」と頼んだ。
 整形外科医のジョーブ博士は1974年9月、同年6月に左ヒジの靭帯を切断したドジャースの左腕投手、トミー・ジョンの右手首の腱をヒジに移植する手術を行った。同投手は1976年、公式戦のマウンドに復帰。207イニング投げて10勝10敗の記録を残し、世界初の手術が成功したことを実証した。以後この手術は「トミー・ジョン手術」と呼ばれている。

日本人初のトミー・ジョン手術

 村田夫妻は1983(昭和58)年8月20日、成田空港を発ってロサンゼルスに向かった。空港で夫妻を迎え、ロス郊外のセンチネラ病院でジョーブ博士に引き合わせたのは生原だった。ロッテから連絡を受けた生原はすぐオーナーのピーター・オマリー会長と相談し、ドジャースとして村田の手術に全面協力することを決めていた。
 8月22日、順天堂病院で撮影した村田の右腕のレントゲン写真を見た博士は、触診と問診のあとで言った。「痛みの原因はヒジの腱が切れているからです。このままでは完治することはありません」
 トミー・ジョン手術は8月24日に行われた。悪夢の近鉄戦マウンドで激痛が走ってから463日の歳月が流れていた。
 全身麻酔で行われた手術は、まず左手首をヒジに向かって切開して1本の腱を取り出す。15センチほどのこの腱を、今度は患部の右ヒジを切り開き、骨にドリルで穴をあけて、8の字を書くように植えつける。さらに右ヒジの筋肉がつぶれてすり減っているため、筋肉を下から引っ張り上げて腱にかぶせる複雑で難しい手術だった。
 だが術後の経過は順調で、3日目の回診で退院許可が出た。その後、日米で多くの選手がこの手術を受けているが、村田はトミー・ジョンに続いて2人目、日本人としては初めての手術だった。

復活・サンデー兆治

 村田夫妻がロサンゼルスに着いてから術前術後の3週間、夫妻につきっきりで面倒を見たのはロス在住の日系人、トーマス・田山である。すでにドジャースのオーナー補佐に昇進していた生原も、空いた時間を見つけては病院やホテルの夫妻を訪ねた。
 田山は古くからのドジャースファンで、ドジャー・スタジアムのシーズン・チケットを買ったファンだけが入れる球場内の会員制レストラン「スタジアム・クラブ」のメンバーだ。生原は筆者にいった。
「ロッテ球団から相談を受けたとき、ピーターと相談してジョーブ博士を紹介することにした。村田さんがジョーブ博士の手術を受けるとなると、誰か滞在中の面倒を見なければならないと思った。僕ができれば一番いいんだけど忙しいときだったので、つきっきりというわけにもいかず、昔から親しかった田山さんに僕の代わりをお願いしたんだ。野球が好きで誠実で、面倒見のいい田山さんは喜んで引き受けてくれたよ」
 退院後、ジョーブ博士の指示を守ってリハビリに専念した村田は1984(昭和59)年のシーズン終盤に復帰する。この年は5試合に登板して0勝1敗だったが、翌1985年は開幕から11連勝し、シーズン17勝5敗の完全復活でカムバック賞を受賞した。
 村田は毎週、日曜日に登板して「サンデー兆治」と呼ばれた。マウンドに復帰してからの7年間で実に59勝を挙げ、通算22年間で215勝の成績を残して1990(平成2)年10月に40歳で引退。2005(平成17)年に野球殿堂入りした。(敬称略)
( 生原伸久(いくはらのぶひさ)/産経新聞OB  日本記者クラブ会員78歳)

『東京オリンピック野球復活・陰の立役者 アイク生原の知られざる生涯/生原伸久 著』より抜粋・改変

アイク生原の 知られざる生涯

 

関連記事

  1. PHOTOスケッチ48
  2. すこやかな心で介護トラブルを防ぐためのお悩み相談室
  3. シニアライフ・コンシェルジュが案内する都内の名処②
  4. 水前寺清子の人生いつからでも花ひらく
  5. PHOTOスケッチ49
  6. 老後をどう生きるか? 老後をどう生きるか?②
  7. 【新連載】芝田千絵のアートライフ vol.1
  8. 水前寺清子の人生いつからでも花ひらく
ゴールデンライフ送付希望の方
読者プレゼント応募方法
脳トレ・脳レク応募申込
脳トレダンス動画
ゴールデンライフ広告掲載

ピックアップ記事

  1. 川中美幸さん
  2. 健康レシピ
  3. 心と心をつなぐおやつ
PAGE TOP