コラム

オリンピックに野球を呼び込んだ男~アイク生原の生涯③

野球をオリンピックに呼び込んだ男

❸大リーグ・ドジャースに自費留学

東京オリンピックで復活する野球を36年前、五輪種目にするために奮闘した日本人がいた。
彼の名はアイク生原(いくはら)(本名・生原昭宏)。亜細亜大学野球部監督を経て27歳で米大リーグ・ドジャースに自費留学し、オーナー補佐まで登りつめた55年の人生は、野球と日米親善に捧げた生涯だった。

元祖「日米野球の架け橋」 鈴木惣太郎の紹介状

 アイク生原は昭和12年1月、福岡県香春(かわら)町で生まれた。両親は小学校と女学校(当時)の教員だった。
 戦後間もない小学校3年から野球を始め、県立田川高校では野球部の主将で、強肩強打の捕手だった。
 早稲田大学では4年生のとき、野球部で1、2年生を指導する新人監督を務めた。
 卒業後は社会人野球の一塁手をへて亜細亜大学野球部の監督に就任。
当時東都大学リーグの3部だった同大学を1964(昭和39)年春、1部に昇格させた。
 しかし実質3年半、7シーズンで悲願の1部に昇格させた生原は、この年の秋、監督を退任する。
 生原の実弟である筆者は、勤務先の新聞社に突然、兄の訪問を受けて驚いた。「野球の勉強をし直すため、アメリカ大リーグに自費留学したい」というのだ。 
 私は「幼い子供もいる。賛成できない」と反対したが、兄は「ドジャースに留学するにはどうすればいいか」と目を輝かせている。私は説得を諦め、「どうしても行くのなら、大リーグ通の野球評論家・鈴木惣太郎さんの紹介状をもらっていくべきだ。そうでなければ、どこの馬
の骨か、と相手にされない」とアドバイスした。
 兄は深くうなずき、私が教えた横浜の鈴木家を訪ねるため、走るように東京駅に向かった。
 生原はアポもとらず、いきなり初対面の鈴木に面会を求めたが、鈴木は玄関にも出てこなかった。ここから始まる「鈴木詣で」の様子を、生原の没後、妻・喜美子がベースボール・マガジン社から出版した著書『ドジャースと結婚した男 夫・アイク生原の生涯』で書いている。
〈二度、三度と鈴木先生のお宅に通ったものの、門前払い。そこで夫は一計を案じる。私に和服を着てついてきてくれというのです。
 和服を着て玄関にたたずむ私を気の毒に思われたのか、鈴木先生の奥様が先生に取り次いでくださったのです。
 鈴木さんが生原に会ってくださったのは四度目の訪問のときでした。そして、日米親善野球の写真やさまざまな記念品が飾られた応接間で、鈴木さんは生原に大リーグという組織について説明をしてくださったのでした。(中略)
 鈴木さんが知りたかったのは、なぜ生原がそれほどまでにアメリカの野球に執着するのかということでした。
 生原は亜細亜大学を一部に昇格させたものの、自分の指導方法はこれでよいのかという疑問をずっと持ち続けていました。その答えを探しアメリカへ行きたい。野球の最高峰である大リーグで、もう一度、野球というものを一から学びたい。生原は、鈴木さんにそう訴え続けました。
 夫の話を聞いた鈴木先生は、ついにロサンゼルス・ドジャースの会長、ウォルター・オマリーさん宛てに紹介状を書いてくださった。鈴木さんは、見ず知らずの青年の野球に賭ける情熱を信じてくださったのでした。〉

父が職を賭して留学資金を調達

 鈴木惣太郎は1890(明治23 )年5月、現在の群馬県伊勢崎市で生まれた。
 大倉商高(現・東京経済大学)を卒業後、生糸取引会社の小松商店に入社。ニューヨーク支店に駐在中、鈴木は大リーグ野球に魅了された。
 アメリカで大リーグ関係者と人脈を広げた鈴木は帰国後、読売新聞の拡販のため日米野球に注目していた社主・正力松太郎にスカウトされ、1931(昭和6)年と1934(昭和9)年の米大リーグ選抜チーム招聘事業では自ら渡米して交渉。ベーブ・ルースやルー・ゲーリッグを招いて日米野球交流に貢献した。
 日本プロ野球の誕生と日米交流を陰で演出した鈴木は、大リーグの名選手や有力オーナーに人脈が広い。
なかでも名門・ドジャースのオーナー、ウォルター・オマリーは、最も敬愛した親友だった。
 親書を読んだオマリーは「スズキサンの友達は私の友達だ」とドジャース留学を快諾したが、渡米までの生原にはアメリカ留学の準備はまったくできていなかった。安月給の青年監督に長期留学に必要な費用の貯えなどなかったのだ。
 生原は当時、郷里の小学校で校長をしていた父、佐七郎に助けを求めた。
「2年間の留学予定で、費用は200万円。そのうち100万円は大阪(妻の実家)の父がみるので100万円をみてほしい」
 困った佐七郎は退職金と自宅を担保に銀行から借り入れ、留学資金150万円を準備した。退職までの短期ローンは月額15000円の利息を含めて毎月25000円、ボーナス期5万円の支払いだった。当時は早大の年間授業料が3万円。学生下宿は部屋代の相場が1畳1000円、ラーメンは学生街で30円、タンメン50円の時代である。(敬称略)
( 生原伸久(いくはらのぶひさ)/産経新聞OB 日本記者クラブ会員77歳)

『東京オリンピック野球復活・陰の立役者 アイク生原の知られざる生涯/生原伸久 著』より抜粋・改変

アイク生原の 知られざる生涯

 

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