コラム

元新聞記者が会った昭和の偉人たち 伝説の名刑事・平塚八兵衛

 あれは、昭和49年(1974年)2月の夜でした。社会部内の定期異動で警視庁担当の事件記者になった私は、川崎市麻生区の捜査1課刑事・平塚八兵衛さん宅を訪ねました。
 大きな立派な家でしたが、玄関に出てきた平塚さんはガラス戸を30センチほど開けただけで「オウ」と一声。私が「このたび捜査1課担当のチーフになりましたので、ご挨拶にうかがいました」というと「がんばりな」と言っただけで、すぐ戸を閉めようとしました。
 平塚さんが新聞記者嫌いで気難しいことは先輩記者から聞いていましたが、私もこのまま引き下がるわけにはいきません。とっさに片足を引き戸と柱の間に差し込み、半ば強引に中に入り込みました。
 平塚さんは〝落としの八兵衛〟とよばれました。どんなにシラをきっている容疑者でも、八兵衛さんのタカのような眼光と厳しい取り調べにたまらず全面自供するからでした。
 捜査が終わって帰宅すると、その日の聞き込み証言をノートに書き込み、捜査資料を整理します。
 夜も忙しい八兵衛さんは、〝御用聞き記者〟を嫌いました。取材でつかんだ情報もなく、手ぶらで「今日は何か動きはありませんか」と夜よ回まわりに来る記者には忙しいんだ。けえってくれ」とそっけなく、外から背中が見えているのに「今日は留守だよ」と追い帰された記者もいたそうです。

最後の大仕事は3億円事件

 毎晩のように夜回りをして、私がやっと応接間にあげてもらったのは、3億円事件の発生直後、捜査本部のあった府中署に1週間、泊まり込んだ話をしてからでした。
 昭和43年(1968年)12月10日、東京・府中市にある府中刑務所の裏で、東芝府中工場の従業員のボーナス約3億円(現在の約10〜20億円)を運んでいた現金輸送車が、白バイ警官を装った犯人に車ごと奪われた事件です。
 当時、私は警視庁の察回りでした。担当は新宿区から杉並区までの4方面なので、府中署がある8方面は隣接区域だったのです。
 事件発生当日は代休だったので、2日目からは府中署捜査本部の留守番です。毎夜行われる捜査1課長の記者会見では、「課長の後ろに立って警察手帳をのぞき込め」というのが先輩からの指示でした。
 現金輸送車やニセの白バイなど、多くの遺留品が残されていたことから、発生当初は「早期解決間違いなし」とみられていました。警視庁担当の事件記者は会見後、手分けして刑事の自宅に夜回りに行きます。しかし私は「犯人が自首したり逮捕連行されて来たら速報」するのが任務ですから、そのまま署長室のソファーに泊まり込みました。
 宿直の署員がソファーのそばに灯油ストーブを置いてくれましたが、それも早朝には油が切れて目が覚めました。
 各社も最初の1日か2日は臨泊要員がいましたが、1週間も居続けたのは私だけでした。
 八兵衛さんが3億円事件の捜査本部に入ったのは、事件発生から4ヵ月後の44年4月からでした。本人は同年3月に55歳の〝定年〟で勇退する予定でしたが、当時の本多丕道警視総監じきじきの要請で捜査キャップとして陣頭指揮をとることになりました。予想外の捜査長期化に慌てた警視庁が、他の事件を担当していた切り札・八兵衛さんを投入したのです。
 八兵衛さんは酒を飲みません。夜回りの応接間では、奥さんが運んでくれるお茶とせんべいや菓子をつまみながら、捜査一筋の刑事一代を聞かせてくれました。
 八兵衛さんは茨城県土浦市に生まれ、昭和14年(1939年)1月、鳥居坂署(現麻布署)に入ります。同18年(1943年)に念願の警視庁捜査一課に移り、以来、殺人事件だけで124件も扱いました。

吉展ちゃん事件を逆転解決

 昭和21年(1946年)の小平事件、23年(1948年)の帝銀事件、24年(1949年)の下山事件、38年(1963年)の吉展(よしのぶ)ちゃん事件、そして3億円事件……など、戦後事件史に残る大事件を手掛けました。なかでも八兵衛さんが「落としの八兵衛」といわれる象徴的な事件が、吉展(よしのぶ)ちゃん事件でした。
 東京・台東区の村越吉展ちゃん(4歳)が近所の公園から誘拐され、殺害されたのです。警視庁は当時、荒川区で時計修理工をしていた小原保(おはら・たもつ)を容疑者として2度取り調べましたが、落とすことができませんでした。それを飛び入りで取り調べ官に起用された八兵衛さんがアリバイ供述の矛盾をつき、全面自供に追い込んだのです。
 
 しかし伝説の名刑事でも、3億円事件を解決することはできませんでした。八兵衛さんは50年(1975年)3月、時効まで9ヵ月を残して32年間の刑事生活に自ら幕を下ろしました。5年余も見えない犯人を追い続けて体力、気力の限界を感じたようです。
 私は夜回りの応接間で何度も聞いた話を思い出します。「俺は昇任試験を1度も受けないで警視まで昇った。昇任試験を受けないで警視になった警察官は俺だけだ」
 そして名刑事は退職から4年後の54年(1979年)10月30日、すい臓がんのため永眠しました。66歳でした。

生原伸久(いくはら・のぶひさ)
産経新聞OB。日本記者クラブ館員。76歳

 

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