コラム

【新連載】元新聞記者が会った昭和の偉人たち

昭和を駆け抜けた偉人たちの横顔に迫る
 国民作家・司馬遼太郎 ①

 平成3年(1991年)11月、作家の司馬遼太郎さんは文化功労賞受賞の記者会見でこう語りました。
「どうして日本はこんなにバカになったのだろう、というのが22歳の時の感想でした。昔は違ったろう、と思うのですが、知識がないものですから、35、6歳のころから文献や資料を少しずつ読み始めました。それから書き始めた私の作品は、22歳のころの私への手紙でした。
『竜馬がゆく』も『坂の上の雲』もそうでした。『日本とは何ぞや』がテーマでした。昔は違ったに違いない。そうでなければ、日本はここまで生きのびてこれないのですから。それが、昭和になって悪くなったに違いない、と思ったのです」
 大阪外国語学校から学徒出陣した司馬さんは、終戦で復員したとき22歳でした。2つの小さな新聞社を経て、昭和23年に産経新聞に入ります。
 京都支局に配属された司馬さんは警察、裁判所、京都府庁、大学、宗教などを担当しました。新聞記者になって2年目の夏ごろから小説を書くようになり、35年(1960年)に直木賞を受賞した「梟(ふくろう)の城」が、司馬さんの出世作です。この作品の底辺には5年間、京都で仏教を担当した成果がありました。
 二足のワラジの司馬さんが、みどり夫人(故人)と新婚生活を始めたのは昭和34年、大阪・西長堀にある日本住宅公団(当時)アパートの1DKでした。直木賞のあと、小説の依頼と資料が急増したため1年後、同じアパートの2DKに移っています。文化部長だった36年に産経新聞を退社し、翌年から名作『竜馬がゆく』を書き始めたのは、この2DKでした。 司馬さんは酒を飲みません。仕事で上京しても、文壇の社交場である銀座とは無縁の作家でした。それでも分刻みのスケジュールを割いて、新聞社の後輩である私たちに話をしてくれました。
 社長以下部長以上の後輩たちの前に現れた司馬さんは、テレビや写真で見る通りの笑顔でした。気取ったり堅苦しいところはみじんもなく、最前列で社長と並んでいた論説委員を見ると、真っ先に声をかけました。
「ケロちゃん、頑張ってるな。僕も毎日、ケロちゃんの1面のコラムに負けんようにと思って書いてるんやで」 長年1面コラムを担当している名物記者をニックネームで呼びながら、司馬さんは実に親しげに話し始めました。二人は旧知の仲で、司馬さんは日本記者クラブ賞や菊池寛賞を受賞した後輩記者を高く評価しています。私は二人のやり取りを聞きながら、この大作家が座談の名手で、〝人たらし〟の異名をとるゆえんがわかった気がしました。
「なんでも聞いてや」と司馬さんが声をかけて、自由発言の質疑応答が始まりました。印象的だったのは、編集局長の一人が出した質問でした。「私たちは毎日、できる限り真実を書いているつもりですが、本当に読者に真実を伝えることができているのだろうか?と不安になることがあります。新聞で100%の真実を伝えるには、どうしたらいいのでしょうか」
 すると司馬さんは、ヒザを叩くようにしていいました。
「さすがここにいるのは新聞社の幹部だけに、いい質問をするね。確かに新聞で真実を伝えるというのは難しい。それでも限りなく真実に近いことを伝えるには、何事も相手の立場に立って考えてみることです。例えば中東の紛争問題を書くときでも、大手町(本社)の机の上で考えるだけでは、何が真実なのかわからないよ。そんなときは、遠く離れた中東の国や人々の立場に立って考えてみたらいい。
そうすれば、大手町で考えるより、少しは真実が見えてくるはずだよ」 私が昭和38年(1963年)に入社したとき、私たちの新聞に連載されていたのが『竜馬がゆく』でした。以来、すっかり司馬文学に魅了され、文章のお手本にしてきました。
 私たちの社は東京と大阪に本社があります。司馬さんは大阪のOBなので、大阪の後輩達に原稿の書き方を指導することもありました。
 司馬さんの話を聞いた同僚によると、司馬さんは「新聞記者は名文家でなければならない」といったそうです。新聞の読者は高齢者から小学生までいるのだから、「ニュースをわかりやすく、正確に伝えるには、記者も水準以上の筆力が必要だ」というのです。
 そして、原稿を書くときは「いつも、少しだけうまく書こうと心掛けなさい。そうでないと、文章は上達しない」とも。
 これは含蓄(がんちく)のある言葉ですが、これが難しい。ひとつ間違えるとキザな、はなもちならない文章になってしまうからです。
 私が司馬さんの〝文章読本〟で印象に残っているのは「文章はトロッコの列のようなもの」ということでした。トロッコの大きさはみな同じですが、文章のトロッコ(センテンス)は、1台ごとに長かったり短かかったり変化をつけないと単調な文章になる、というのです。
 司馬さんの文体は、このリズムが絶妙なので読みやすいのが魅力のひとつでした。私たち東京の後輩も大先輩の素顔と肉声に接し、またの上京を待ち望んでいましたが、巨星はほどなく急逝しました。享年72歳。あれから今年で、没後20年になります。

生原伸久(いくはら・のぶひさ)
産経新聞OB。日本記者クラブ館員。76歳

 

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